興味ないですか? ~それについて~

とある伝統工芸に関する話題を若い女に振られて。

 

”いや、興味はあるが、お前さんが今提示しているものには食指は動かないねぇ・・・”

なぞと思えど、それをうまく表現できずに、「あ・・・、う・・・」ってなっていたら・・・

 

興味ないですか?

 

って、言われた。

 

その言動が、”この人は伝統工芸には興味ないんだな(そういうものに重きを感じない人なんだな)”、といった受け止め方をした者のニュアンスが含まれているように感じられて、煮え切らない。

 

(いま、モヤモヤする、という言葉を使いかけて、少し前に違う若い女にその言葉を使われてこれまた煮え切らなさを感じたこと思い出し、”煮え切らない”という言い回しにたどり着いている。)

 

おそらく私は、○○ありき、といった部分に引っかかりを感じているのかもしれない。○○こそエライ、○○こそ本物、みたいな思想に。そしてその思想は、かつて自分がはまっていた”虚構”に通じているように、今、思えているから。

 

それはそれでそこにあって、それを自らのスタイルにうまく取り入れることこそ粋。でもそれは、見えるようにしておかなければ消えていってしまうものでもあって。それを気づいた者によって受け継がれ、守られていく。○○は、そういった類のものだ。

 

立派なことだと受け止められれば、それに関心を持つ者の評価は上がる。そして、ちょっと自我の芽生えたマジメな大衆は、そういうものに飛びつきがちだ。わかりやすく、自分の価値を高く見せられるからね。

 

自分の辿っていた道であるが故、見えてしまう。

違ったと、距離を置きたくなってしまう、それを取りまく大衆。

いわゆる”ホンモノ”が分かる”ワタシ”。

 

 

でも・・・

 

興味ないですか?、と言われて煮え切らなさを感じている時点で、結局そのトラップから抜け出せていないのだと、自覚させられる。自らの”しょうもなさ感”は、生きている限り永遠に、付きまとうのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

アート・伝統工芸と地方女子

だれか答えをくれないか

何かの記事で、自分の専門外の仕事に対して積極性がなく自分の範囲内でしか仕事をしようとしない、みたいなことに対するお叱りというか疑問を呈するコメントがあった。

 

自分の今の状況に照らし合わせて考えると、私もその一人と言えなくもない。だがそれは、本当に自分の我がままだろうか。

 

明らかに専門外のことを、さもありなん、で請け負ってしまってよいものか。物事には型や肝のようなものがあって、それを知ってやるのと知らないでやるのとでは、何かの拍子にとてつもない、あるいは時にリカバーできない損害をもたらすくらいの、大きな違いがあるように思うのだ。

 

だけどまぁ、世間から見たら、私の考えが間違っているのだろうなぁ。私は、ちゃんとしたものを提供したいだけなんだけれどなぁ。自分に請け負えるものならば、これまでだってちゃんとピンチヒッターも引き受けてきたのになぁ。なんでこんな、困ったちゃんみたいな立ち位置にいるんだろう。

 

文系に理科を、理系に社会を教えろと言ってるくらいの無茶振りも、受け入れるのが正解なのだろうか・・・。

どんどん無口になる

出来てないから呼び出したり声かけたりしているのに、さも自分は出来ているかのような返答を繰り返す人物がいて、何というかちょいとイラっとする。それを知人と共有すると、大抵「分かります・・・」ってなる。のだが・・・。

 

最近。「分かります」の後に、彼女はつづけた。

 

困ってるはずなのに助けを求めないんですよ。誰かが声かけてくれるのを待つというか・・・、それでダメでもまぁしょうがないか、と思ってるというか・・・。何とかしようという気が見られないんですよね。

 

彼女は、私も含め皆が感じている軽い「イラっ」の正体を、大変わかりやすく表現してくれた。が、客観的に聞くそれは・・・

 

・・・あ、、ぅ。。これ私だ・・・、って気づいて。

そこからやけに無口になるという。。

よく、映画とかの演出で自分の内面と現実とが乖離していく場面があるけれど、その時の私の心象はまさにそれで。

 

そんな「あ・・・」とか、「あれ・・・?」を伴う違和感だったり気づきだったり、そういうのが何だか今年に入って急激に増えてきてつらい。